無資格学芸員かく語りき byドクターアルカイック
無資格学芸員(?)がお届けするユニークで知的な美術コラム
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作家がブレイクするとき −李禹煥と蔡国強(2)
第4号− 2008年4月号 −
いまや中国の現代美術作家のシンボル的存在として認められている蔡国強について語るには、 文化大革命と天安門事件に触れざるを得ない。さらにキーパーソン黄鋭(ホアン・ルイ)の存在も不可欠だった。
一般に、中国の現代美術は、1980年から始まったとされる。それは、その前年にあの文化大革命が終結したからだ。 当時、「星星図会」という前衛芸術家のグループがあって、当局の取り締まりのスキをぬって、展覧会を重ねていた。 だが、会場がオープンする直前に、官憲が乱入し、作品を撤去する事態が日常化していた。 このグループの代表格が黄鋭であった。彼は中国の状況に失望し、1984年に来日した。 当局にとって要注意人物の彼は、北京に戻れば逮捕が待っていた。大阪に拠点をおき、作品を作る一方で、 同様の境遇にある作家たちを中国から呼び、数々の展覧会を組織した。1986年に、上海演劇大学美術学部の修了をまって、 蔡国強が彼に合流した。来日してすぐに、中ノ島にあった大阪府立現代美術センターで、彼らのグループ展が開催された。 日本で初めて発表された蔡国強の作品は、地塗りのない100号のキャンバスに、線状の火薬の燃え痕をつけた作品だった。
蔡国強は、このあと、使用する火薬を、キャンバスの上から地面へ広げ、日本各地でパフォーマンスを広げた。 世界史上、火薬は中国人の発明とされている。そのわかりやすさと、数少ない中国人現代アーティストということで、 彼はたちまち有名人になった。
日本には1986年から10年間滞在したが、その間に、あの天安門事件がおこった。1989年6月4日、戦車で民衆を踏みにじるシーンが、 テレビで世界中に配信された。民主主義のない国という反中国キャンペーンが、アメリカから世界中に広がった。 当局は、民主化路線に大きく舵をとりつつも、外圧をかわすだけの具体的な政策に迫られた。その一つに、蔡国強に白羽が立った。
90年頃から、蔡国強はアメリカで評価を集めていた。その仕掛け人が、東京画廊だった。 1995年の第46回ヴェネツィア・ビエンナーレへの出品は、彼の評価を決定的なものにした。 もはや中国政府は、蔡国強の帰国を拒むどころか、三顧の礼をもって迎えなければならない立場になったのだ。
こうして、今では蔡国強は、ニューヨークに住みながら、中国現代美術の国民的スターになった。 彼を支えた黄鋭も、大手を振って帰国し、2001年に、北京にあの有名な「798芸術区」を作り上げ、プロデューサーとして活躍している。 東京画廊も底に店を構えている。
かの歴史を誇る機関紙「人民中国」は、いま、かつての弾圧には一言の反省も無く、蔡国強を「古きを破り、新しきを創造」と、 ベタベタに持ち上げている。







