無資格学芸員かく語りき byドクターアルカイック
無資格学芸員(?)がお届けするユニークで知的な美術コラム
これであなたも学芸員or美術評論家!?
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画廊の時代は終わったか?
第5号− 2008年5月号 −
画廊というものが、いつできたのかは、定かでない。美術評論家の瀬木慎一氏によれば、大正時代に、画廊九段と言うのが、皇居に近いところにあったとされる。だが、どのような作家を扱い、どのような活動をしていたのかは、これといった資料が残っていないそうだ。次に現れたのが、日動画廊で、一般的にはこれが、日本における画廊の始まりとされている。だから、たかだか100年の歴史しかないことになる。
国立国際美術館の建畠晢(たてはた あきら)氏によれば、しかしながら、もう画廊の時代は終わったと言う。東京で1000軒以上、大阪でも500軒以上、日本全国で2000軒以上あるといわれる画廊界にとっては、ゆゆしき問題だ。
確かに、昔の画廊は、ある意味で、画家のスポンサーでもあった。それだけで、存在意義があったのだ。基本的には、画家とコレクターをつなぐ存在でありながら、金銭的にも画家を支えていた。この基本的な図式がある限り、画廊は、明確な社会的な役割を担っていると言って良い。
例えば、戦後になって、現代美術と称する分野が、大きく成長した。高度成長からバブル経済に突入すると、余った金が美術界にも流れ込み、美術マーケットは肥大化し、必然的に世界的なマーケットの中に組み込まれていった。この機に、早くから海外とのつながりを深めていた南画廊や東京画廊、南天子画廊などが、現代美術の擁護者としての立場を確立する一方、初めて現代美術の分野において商業的にも成功をおさめた。今風に言えば、プライマリーギャラリーの誕生であった。
これらの画廊の成功に刺激され、以後多くの画廊が生まれ、他の業界からの新規参入も続出した。プライマリーギャラリーのノウハウを踏襲する画廊もあれば、貸し画廊としていわば、画廊のスペースの切り売りで、現代美術を扱う画廊も増えた。挙句のはては、カフェバーや、カフェレストランなども、後に続かんとばかりに参入した。画廊以外のスペースには、オルタナティブスペースという、新たな造語も誕生し、それによって、それらのスペースが積極的に活用された。これらの展示スペースの多くは、セカンダリーギャラリーであった。プライマリー・セカンダリーの区別は、契約その他によって、作家を支えるか否かにある。セカンダリーは、プライマリーなしには本来存在しない。
だが、こういった画廊の側の多様化をよそに、村上隆のような作家が、忽然と登場した。彼は、自らのマネジメントを自らでやり遂げる。彼にとっては、プライマリーギャラリーも、セカンダリーギャラリーも必要ではない。自分自身によるプロモーションだけで、自分の作家活動が保証される超優良株なのだ。こういう事態を受けて、評論家の多くは、「画廊の終焉」という。だが、本当に終焉かどうかは、先になってみないとわからない。







